平等

 日本では、個人と個人は平等であると教えられます。それは大局的には、っていうか大まかな意味では正しいです。つまり、「平等」の定義しだいでいくらでも変わりうるために、あえて平等がどうとか、言う必要に乏しいってコトです。

 

 平等より日常的な概念として「対等」ってモンがあります。こっちはより普遍的に語るにそぐわないでしょう。人はみな対等の存在である、とか言ったところでなんの内実もないスカスカの意見に過ぎないです。

 そして、具体的な誰かと誰かの問題だということを前提にすれば、もはや「ひとはみな対等であるべき」などという意見が意味を持たないことは明白でしょう。

 

 親と子どもは対等ですか?社長と係長は対等ですか?嫁と姑は対等ですか?違うでしょう。

 基本的に上下関係にあるはずです。言う事を聞く必要があるはずです。

 平等とか対等とかを履き違えてませんか。

 「旦那の給料は嫁のワタシが使うのが当然」ですか?憎い姑には一銭たりとも渡しませんか?旦那が親に恩返しなり介護費用なりに使うのも同じくらい当然ではないですか。

 いまの20~30代の若い親と接する機会がないわっしですら、テレビを通じて(だ、だいじょうぶか?)と思ってしまうんですが、実際に自分が親になって他の親たちと接するようになったときに果たして耐えられるかどうか。

 時と場合を考えず、いつでもどこでも平等平等言ってる人は、自分と他人が平等だなどとは思ってないでしょう。むしろ自分こそが特別な人間であって優先されるべきだと思っているでしょう。

 

 ってことを、今放映してる、「フランス人男性の家に嫁いだ日本人妻」みたいな番組の中で、フランス人姑から料理に関する小言(真っ当な)をいわれた日本人妻が「ちょっとイラっときました」って結構本気でいってるのを見て思ったわけです。すごく話が脱線したけど。