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ブログの文章(特にタイトル)って、あとで読み返すととても恥ずかしいときがあるよね。

でもわっしは一文字たりとも消さないという、不退転の決意で(コレ去年の冬によく聞いたなぁ)ブログを書くよ。

 

 

 ってわけで、思ったこと一つ。

 

 きのう、ヤフーから飛んでいったどっかのサイトで、「『いいね!』では世界を救えない」っていうことを言ってる人(団体?)を取り上げたページがあったんだよ。

 説明するまでもないだろーけど、シリアとかエジプトで内戦・内紛のとばっちりを受けた市民の写真とかに「いいね!」を押しても、それだけじゃ何にもならないよー的な主張であるようです。

 

 東日本大震災の直後の花見シーズンのとき、自粛ムードに違和感を感じた人が「自粛じゃなくて、他粛だろ!」的なことをネットで言ってて、わっしはそのとき、そのひとのドヤ顔がはっきりイメージできて、とてもイラッとした記憶がある。

 

 んで、さっきのつづき。誰が見てもゼロのものに、「ゼロだよ」っていったところで、「うん。ゼロだよね」ってなるだけじゃん。ゼロなのにプラスっぽい評価をされているモノについて、「ゼロだよ」って主張するのには、意義がると思うけど。

 

 本田宗一郎が、「例えば工場の作業員の一人が技術をものすごく磨いたって、全体のことを考えれば大して意味はない。だが、ひとりがいいアイディアを出せば、少しずつだが、みんなの作業効率がいっぺんに上がるわけだ。」ってことを言ってた。

 日本の学校で、環境問題とか貧困問題について感想文を書かされるとき、子どもは十中八九、「私たちにできる小さなことからはじめようと思います」って書く。それは一片の曇りもなく正しい。正しいんだけど、行為や志の立派さを度外視すれば、問題解決について一番役に立つのは、やっぱりアイディアを出すことなんだな。

 ビルゲイツにでもならない限り、個人でできることには上限がある。だから、税金の使い道として、国際貢献をするっていう選択を国民がするのが問題解決に一番効果があると思うんだ。んで、その選択をする機会ってのは、いうまでもなく選挙なんだな。だから、その選挙のときに、国際貢献について積極的に乗り出す人物、政党に投票するってのが、「私たちにできる小さなこと」のなかでもっとも効果のあるものだと思う。

 とはいっても、候補者の公約で国際貢献について述べているものはたぶん無い。それに公約に挙げてたとしても、実現可能性はまた別の話。自分で立候補して内閣総理大臣になるっていうのなら話は別だけど。

 

 以上が、観念的、建前的なお話。

 やっぱし現実には、選挙での投票より個人の貢献活動のほうが問題解決に資しているような気がする。

 「100円の募金で命が一つ救えたとしても、同じような境遇の人は何百万人もいるんだから、どうしようもないじゃん!」てきなことを言う方もいると思いますが、でも、個人のレベルで、世界中の何百万人の貧困児のことにまで思いを致すことはないんじゃないかと思います。たとえちょっとしか貢献できなくても、そのちょっとが役に立つなら、それでいいじゃないですか。

 石井光太さんは、「インドの子どもが物乞いに来ると、『ここでモノを恵むのはこの子のためにならない』とか、『わたしがモノを恵んだところでなんの解決にもならない』とか、ずいぶん難しいことを考える方もいらっしゃると思いますが、もっと気楽に考えてもいいじゃないかと思います」みたいなことを言ってたんだが、わっしも大体同じことを思う。海外に行ったことすらないけども・・・。半ニートだけども・・・

 

 まー要約すると、子どもたち、勉強して遊んで歯磨けよってことです。