当世文化批評

 批評っていうのは(なにをいきなりエラソーに)、批評の直接の対象である、事件や人物またはモノについて、直接に語り始めるんではなくて、批評しようとする内容と関係のある何か(表面的には批評対象と関係なさそうに思える)について語り、そこから何か、より一般的・普遍的な「真理」(大げさだなー)を読みとき、それを基にして対象について語る、という構成がまぁ一般的なんじゃないかと思うんだ。

 わっしの文章がわかりにくいので例を挙げると、新聞の下のほうにある、編集者のコラムだよ。「天声人語」とか、「編集手帳」とかね。実際の例じゃないけど、福沢諭吉のあるエピソードを紹介して、なにかしら「世の理」を抽出して、それを基に、最近の株価乱高下について語る、みたいなね。

 こりゃぁもしかして、批評だけに特有のスタイルではないのかもね。小説の冒頭の、引用文とかね。引用文だけ読んだのでは、さっぱり意図がわからない。しかーし、読み終わって、あるいは読んでる途中で、引用文が話の筋とリンクする、みたいなね。

 

 わっしは生きてる間に、小林秀雄の言ってることの半分もわからずじまいだと思うんだが、やっぱりそれでも、文章の構成の堅牢さ、批評内容そのもの(1割くらいしかわかんないケド)には舌を巻くね。氏自身の、「形」についてのこだわりがあの文章にあらわれているんだろうね。

 (以下、わっしの単独無力説)中身は大事だけど、形はそれ以上に大事。漢詩や和歌の例を出すまでもないけど、まず形がしっかりしてないと、「文章」とはいえない(よってわっしの文章は人に読まれるべき「文章」とはいえないんだが・・・)。内容とも密接に関連するけど、起承転結、序破急の書き分け、適度な段落付け、そして文体の統一がしっかりしてないと、まず読めない。思考の跡をたどることができない。

 やたらと「考えさせる教育」がもてはやされるが(そうでもないか?)、形式へのこだわりは、もうちょっと教育の中核に据えてもいいんじゃないかと思うよ。意味内容がわからなくってもいい。どうせ人の書いたものである以上は、いかようにも解釈できるんだから。それに、内容をわからせること自体が教育目的でもなかろうし。

 短くても素晴らしい文章はたくさんあるんだから、それを書き写させたらいいと思うよ。できれば音読とセットにしてね。小学生のときは谷川俊太郎、中学校では夏目漱石、高校では谷崎潤一郎あるいは小林秀雄センセイでもいいと思うけど(センター試験に出たってウワサだし)。

 

 いや、ここまでは前置きで、本題はなにかっつーと、ネット上のレビューだよ!!まただよ!!(・・・んじゃ見なきゃいいじゃんねぇ・・・)

 わっしはこのとおり、暇をもてあました神・・・半ニート生活を送っているので、エラソーな感想の一つでも書いてやろうかなと息巻いているんだが、絶対に言わない・書かないと決めているフレーズ、センテンスが2つある。

①「感情移入」

 これはアマゾンのレビューでは見ないことのないフレーズですよね。レビュアーの「感情」の「移入」の過程なんか、そいつの親でもない限り知りようがないわけで。「他のレビュアーの方の評価は高いようですが、私は感情移入できませんでした」って、アンタ・・・

 作品の評価には「コワかった」「おもしろかった」「かなしかった」「勇気が出た」「怒りがこみ上げた」「感動した」以外にも大事なことってあるでしょー。それはさっきの「形式」の話にもつながるんだが・・・。

②「評価の(好き嫌いの)わかれる作品である」

 お、おぅ・・・。そうですか・・・。わかれるんですね。それをあらためて文章にすることに何か意味があるんでしょうかね。文字数稼ぎですか、誰得ですか。

 

 なあんか書いていて虚しくなってきたぞ・・・

 

 ドリエルの副作用はもう抜けたはずなんだが、まだ寝不足が続いて、目の下の隈がだんだんはっきりしてきたぞ・・・。

 あ、アマゾンの方、気を悪くしないでね。わっしはアマゾン大好きですよ。たぶんもう数十万円分くらいのお買い物をしてるんで。