「趣味は読書です」って堂々と言うからには、ぜひとも読んでおかなければならない(?)本ってのがあると思うんだわさ。

 「hip hop が好きです」って言いながらJAY・Zを聴いたことがない、あるいは、「乗り鉄です」って言いながらトワイライトエクスプレスに乗ったことがないっていうのと同じことで。

 

ってな具合で、そのなかの一冊に数えていいと思う(エラそーに)のが、

金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)

だと思うッス。

 

 わっしがコレをはじめて読んだのは、高校2年で入院してたときで、以来、大学生のときにもう一度読み、さっき3回目を読み終えたんだよ。

 高校生のときは、ひたすらその文章の緻密さ、妥協のなさに心底驚いた記憶があるんだな。というか、わっしその当時、東野圭吾とか宮部みゆきとか椎名誠とか、いわゆるリーダビリティーの高い本しか読んでなかったから、なんちゅうか、いきなり禅寺の一週間体験修行に参加させられたような気持ちだったよ。

 三島氏は官僚の家系の生まれで、自身も官僚であったわけだから、仏教や寺院での生活について、もともと一般人以上の経験・知識を持っていたとは思えないのに、「金閣寺」の文章は、マジでリアルに(・・・)寺の青年僧が書いたかの様だからな。しっかり取材したんだろーなー、などとアホみたいに感心しているわっしなんですが、書かれたのは昭和31年だから、案外マジで取材は大変だったんじゃないかと思うよ。図書館にでも行ってたのかな。その光景を想像すると、鬼才三島も庶民と変わらんよね。

 んで、肝心の内容なんだけど、わっしにはとても、なにか一貫性のある意見なんかを書ける気がしない・・・。成長してねーなぁ

 

 本書は、柏木に感化された幼い青年僧の自分探しの旅(旅ではないが)のお話?いや、ちがうでしょう。自分は何者であるかは、青年(名前なんだっけ?あ、溝口だ)はちゃんとわかっているし、柏木の言うことの方が、正しいとは言わないまでも、より人生の本質に近いことは青年自身も十分にわかっている。「生きるために金閣を焼く」とは言いながら、いざ決行するとなると、自殺用の道具を用意しているのだから。「人生を変えるのは、認識ではなく、行為だ」と柏木に対して言ったものの、自らの行為(美の象徴あるいはすべてである金閣を焼くこと)によって自分の人生が何かしらの意味で善くなるとも、変わるとも、おそらく青年は思っていない。

 このへんのこと、というか、「金閣寺」の重要部分は、終盤の、柏木が青年への借金の取り立てに金閣寺へ来て、青年の部屋で鶴川の死の真相らしきものを話すあたりの場面において、凝縮されていると思う。青年とは反対に、「世界を変えるのは行為なんかじゃなく、認識だ」と確信をもって言う柏木。たぶん彼は、青年の認識のレンズがあまりにも美に焦点を合わせすぎていることを見抜き、「友だちが抱えている壊れやすいものを壊してやるのが俺なりの親切」とばかりに、その固執を解こうとしたんだと思う。「美」=欲しいもの=思い通りにならないもの。南泉斬猫の猫が、柏木の言うとおり、「美」の象徴なのです。

 

 んで、青年が思い悩む、美と人生との相反は、中盤あたりのミツバチと菊の花の関係についての観察(?)の場面によくあらわれていると思う。「菊の端正な形態は、蜜蜂の欲望をなぞって作られた」という部分ね。単純に読めば、菊が金閣であり、蜜蜂は私(青年)ってこと。金閣の形態そのものが、極楽浄土の具現化であり、同時に人の快楽・美への欲望の結晶なわけ。

 もちろん、青年にとって金閣と並んで人生を悩ませる美か欲望かなんか(おい!)の象徴である有為子についての生前、死後にわたっての回想場面においても、同様のことが言えると思うけど、そこはちょっと省略。いや、本書の冒頭で、有為子から、「なによ、吃りのくせに!」って言われたのが、その後ながーく尾を引いていることだけは指摘できると思うよ。柏木風に言えば、「自分は女から愛されないのだという確信」の芽生え、みたいな。

 なぜ人は美しいものに惹かれるのかっていうテーマについての論考をどっかで読んで、そこには、美しい=欠陥がない=安全、だから人はより美しいものに惹かれる、って書いてあったんだよ(あ、ここはわっしの話ね)。なるほどねー

 

  6章の最後に、「きっといつかお前(※金閣のこと)を支配してやる」と青年が宣言する場面があります。しかし、放火の決行の直前に、鎮座する足利義満像を見て、「自分の立てた館の一角に鎮座しながら、とうの昔に支配を諦めてしまっているように見えた」と感じています。ここにおいても、青年自身、金閣の象徴される何か(なんだろうな)が行為によって思い通りにはならないことを自覚していると暗に示されていると見られます。義満は、金閣を建てて所有することによっては、なにも思い通りにならないし、変わりはしないことを悟った。これが、「支配を諦めた」につながるんじゃないかなー(日本史に暗いからおもいっきりテキトーに言ってます)。

 

 まとまらん・・・。そりゃそうだ。バラバラに書いた文章を無理やりつなげただけだから。しっかし、三島センセイはこれを31歳のときに書いたんだよな・・・。「すげぇなぁ」とかいう感想しか出てこないわっしに、「金閣寺」を理解できるとは思えないんだよなー・・・

 「ワインと一緒でね、寝かせておくのもいいんだよ」とうのは、シャルル・オクレール先生の言葉ですが、これは読書についてもほぼ当てはまるものと思います。

 なので、また数年後、読み返そうと思う